時代劇シリーズ

暴れん坊将軍

                            利純英

 現在台湾のケーブルテレビで、時代劇シリーズ“暴れん坊将軍”がZ79)チャンネルで放送されている。古い江戸幕府時代のできごとで、まだ未知なことが多くあって理解に苦しむ、そのため面白さが半減する。そこでいろいろと八代将軍吉宗について調べ整理しまとめてみた。

 彦根城をロケに使用したシリーズは足かけ26年間、延べ831回に渡って日本のテレビ朝日で放送されヒットし、テレビ史に残る金字塔を打ち立てた。台湾で放送されているのはほんの一部である。“暴れん坊将軍”といえばヒーローの松平健、松平健といえば“暴れん坊将軍”と言われるほど、日本人に親しまれ人気をよんだ。痛快な立ち回り、そして悪を懲らしめる名セリフ「余の顔を見忘れたか!愚か者め“成敗“」は日本人ならみな知っている。蛇足になるが、筆者は約23前からこのシリーズを見て楽しんでいた。これらはみな初期のものであった。その頃には遠山の金さんや水戸黄門が盛んに上演されていたが、みな闇ルートで台湾へ入ってきたバイキングだった。だが、残念ながら筆者はセリフを完全に聞きとることができなくなっていた。そのごバイキングを続けて見ているうちに、日本語が昔のように聞き取れるようになりそれ以上にもなった。これはみなバイキングのお陰があっからこそである。その後もテロップが付いていない時代劇シリーズにこだわり続けた。日本政府がイランの国営テレビに無料で送った”お信“はあいま、あいまに見ていた。リタイアのあと通訳の仕事に携わった時、これらのバイキングを楽しんだのが大いに役立ち、今では感謝している。

 さて紀州藩主から、江戸幕府中興の立役者となった八代将軍徳川吉宗は、貞享元年(1684)十月、徳川御三家のひとつ紀州藩の二代藩主、光貞の四男として生まれた。母は側室お由利の方という女性だったと伝えられている。生まれるとすぐに吉宗は、岡の宮(刺田比古神社)の神主の手を経て、家臣である嘉納五郎左衛門の屋敷へ送り届けられた。この屋敷で吉宗は五歳まで育てられた。立場の弱い、部屋住みの四男坊。しかし数々の運命と吉宗自身の才覚が、八代将軍への道を開いた。吉宗は少年時代の名を源六と名乗った。またテレビのシリーズで吉宗は徳田新之助と名乗るが、新之助も幼い頃の呼び名であった。

 吉宗は身の丈が六尺(約180センチ)を超える当時としては大男で,色が黒く、力持ちだったといわれていた。儒学や和歌より、法律や算術などに興味をもっていた。吉宗が藩主になった頃、武士たちの生活は派手だったので、藩主自ら先頭に立って倹約を推し進めていった。着物は木綿、食事は朝夕の二回とし、献立も「一汁三菜」とした。この質素倹約と武芸の奨励によって、武士たちの精神を引き締めた。

 吉宗が紀州藩主だったころ、和歌山城の一の橋門外に置いた「訴訟箱」がルーツの後の「目安箱」となる。のち目安箱への投書をきっかけに「小石川養生所」を設立した。紀州は昔からミカンや醤油などの伝統産業が盛んであった。吉宗は、新田開発や用水工事の充実にあたった。ミカンや新田開発、用水工事はシリーズにたびたび登場する。吉宗は学問を奨励しかつての住所であつた伝法屋敷に講釈所を設け、広く人々に開放した。

ではここで吉宗の足跡を辿ってみることにする。元禄9年(1696)父、光貞に従がい、初めて江戸に行き将軍、綱吉に対面する。従四位下、左近衛権少将に任じられる。1697年江戸赤坂にある紀州屋敷で将軍綱吉から越前国丹生郡に所領三万石を与えられる。1705年8月父光貞が死去、9月兄頼職が死去。10月紀州55万5千石を継ぎ、五代藩主となる。将軍綱吉から「吉」の一字をもらい、名を吉宗と改める。1706年伏見宮貞致親王の娘、真宮理子を正室に迎える。1710年正室真宮理子が死去。1716年八代将軍に就任。1717大岡忠相を江戸町奉行に登用。水野忠之、老中に就任。武家緒法度を天和の制に戻す。鷹狩を復活させる。1722年小石川養生所を設置する。江戸、日本橋に高札を建てる。1723年松平乗邑を老中に任命する。1724年緒大名,幕臣に倹約令を出す。1725年大判金の改鋳を行う。米価の下落防止のため大坂に御為替米会所を設置する。1726年新田検地条目を制定。緒物価の引き下げをさせる。1727年大坂堂島米相場会を設立する。目安箱を京都と大坂にも設置する。1730年老中水野忠之、辞任する。次男宗武に田安門内に邸宅を与える。1732年尾張藩主、宗春の奢侈を譴責する。宗春との間のもめごとはしばしばシリーズに登場した。1733年米価高騰のため、米穀買い占めを禁ずる。各地で打ち壊しが多発する。1734年甘藷を小石川薬園などに試植。1735年米価下落防止のため、最低価格を公定。青木昆陽、「蕃薯考」を書く。1736年元文金銀を鋳造。1739年尾張藩主宗春に蟄居を命ずる。1740年四男宗尹に一橋門内に邸宅を与える。1742年「公事御定書」制定。1744年田畑永代売買の禁止を緩和。1745年将軍職を辞する。家重、九代将軍に就任。1751年6月吉宗死去。享年68歳。

 名奉行大岡忠相は延宝5年(1677)に、旗本•大岡忠高の四男として生まれ、10歳の時に、大岡忠真の娘と養子縁組となる。珠荘院との間に子供を二人儲けたが、二人とも早死にし、宝永6年(1706)にその妻も亡くなった。子供に関したストーリーはシリーズにも登場した。その後御徒士頭(かちがしら)、御使頭(おつかいがしら)、御目付と様々な職を経て、24歳の若さで家督を継ぎ、その後、江戸時代に幕府が宇治山田に置いた遠国奉行「山田奉行」になり、ここで忠相の組織に埋もれないリーダーの資質を発揮、当時、山田奉行所の治める伊勢の国と紀州藩は、領地の境界線を巡ってたびたび争われた。代々の奉行は徳川御三家の一つである紀州藩に遠慮し、正当な裁判が行われなかったが、忠相は問題となっている境界線まで出向き、自ら調べ、権威に屈することなく公正な判定を下した。そこで八代将軍と出会い1716年吉宗が将軍職に就いた翌年、忠相は41才の若さで町奉行に任ぜられ、越前の守となる。

 大岡越前といえば「大岡裁き」がある。中国には北宋朝時代開封府の包公があり、日本には大岡越前ありといわれた。公平で負けた方も文句が言えない位の裁きをし、しかも人情味あふれた判決をくだす。裁判以外の最大の功績は、吉宗の命を受けた、1720年に江戸の「町火消し制度の確立」がある。ちいさな火事は頻繁に起きて「喧嘩と火事は江戸の華」と言われるほどである。当時の幕府直属の「定火消」と大名が用意した「大名火消」だけではとても処理できず、別に「い組」「ろ組」「は組」とか「め組」•••という48組の町人で組織する町火消を設置した。

 大岡越前は、そのほかにも無料で治療を行う「小石川養生所」を1722年に設置した。青木昆陽を使っての1727年にサツマイモの栽培を普及させるなど数多くの行政関係で実力を発揮した。大岡は江戸奉行を19年間、そのご寺社奉行を15年間務め、寛延元年閏10月に1万石に加封され三河太平の大名になった。この大平の大岡家はその後もずっと継続された。寛延4年、病気により寺社奉行を辞し、その年6月に吉宗が亡くなると、その後を追うように同年1219日死去。享年75歳。大岡越前守の墓は領国にはなく、茅ヶ崎市の北部丘陵地帯の浄見寺境内にある。

江戸町奉行

 江戸幕府で、江戸の市政、司法、警察を担当した奉行。町奉行は北と南が月交替でおこない、1ヶ月受付をしたら1ヶ月休みなのですが、その休みの月にも下調べや調書書きですざましい忙しさ、実際には休みが殆ど無かった。旗本から2名任命した。事件が多いので、ほとんどの事件は与力がほぼ全て決着を付けており奉行はその結果を承認するだけ。奉行所の陣容は与力25騎、同心120人。これで御江戸八百八町の治安を守らなければならなったので、かなりのハードだった。一日平均3040件の判決が言い渡された。岡っ引き•下っ引きは同心が個人で雇っているものなので、十手などは持たない。捕り物に参加するに必要な場合は臨時に奉行所が貸し与えていた。同心は安月給なので一般に八丁堀に与えられている屋敷の一部を医者や学者に貸してその家賃で収入を得ていた。

 

老中、若年寄、寺社奉行は同格で、老中の地位がもっとも高い、若年寄は老中を補佐する役目、寺社奉行は、寺社の取り締まり、大目付、町奉行、勘定奉行、遠国奉行は同格で、老中、若年寄、寺社奉行より格が低い。

 

御家人(ごけにん)

 江戸幕府では、将軍に仕える武士(幕臣)のうち、知行1万石以下で将軍に直接謁見する資格のある旗本以外の者を御家人という。御家人の間でも身分が異なる。

旗本

 江戸時代、1万石以下の領地をあたえられていた。将軍直属の家臣。将軍に直接お目通りできる御目見以上の者をいい、享保年間(17161736年)ごろ約5200人を数えた。御目見以下の者をご家人といい、両者を合せて直参と称した。

大目付

 江戸幕府の役職の1つ。老中のもとで大名の取り締まりにあたった。大名目付ともいう。大名の監視のほかに幕政の監督や法令の伝達にもあたった。定員は45人で、旗本の上位の者が選ばれた。

勘定奉行

 江戸幕府で、老中の下で幕府財政と天領(幕府の直轄地)の支配にあたった職。旗本から任じられ定員は4名、郡代•代官を通じて天領を支配した。

老中

 江戸幕府で、政務いっさいをとりしきる重役。10万石以下の譜代大名から45人えらばれ、町奉行•勘定奉行•大目付などをさしずして政務をとった。大老に次ぐ重職であるが、大老は臨時の職であり、常置の職としては老中が最高。

「じい」

 吉宗が「じい」と呼んで慕う、将軍御側取次ぎ役の老人、現代式で言えば秘書室主任。吉宗が幼少の頃からの世話役人。 

大奥

 江戸城は、本丸•二の丸•三の丸•西丸•から成っており、本丸には、本丸御殿、天守閣があった。また本丸御殿•中奥•大奥•の三区に分けている。更に大奥の内部は御殿•長局•広屋敷に分けられている。将軍の御台所(正室)や側室や生母、彼女らに仕える女中の生活の場である。

武士の給料

 20010人扶持(男5、女5)の旗本を例に取って換算すれば、

家禄200石の実収が4ツ物として80石。扶持米男9石、女5.4石、合計94.4石=236俵=13216Kg現在の米10Kgを仮に4000円とすると…5,286,400円となる。無役であれば内職が必然となる。

武士の相続

 相続にはニ種類ある。

「家督相続」....父が隠居して子が相続する。「跡式相続」....父の死亡により子が相続する。元服する年齢は15歳、隠居の年齢は50歳。

お庭番

 吉宗が江戸に連れて来た忍者、今でいうボディー.ガード、常に吉宗の身辺の警護にあたった。

 

シリーズでは吉宗は未婚となっているが、実は吉宗は江戸入り前にはもうすでに正室を迎えていたが、四年ご正室が死去、独身であったことには間違いない。吉宗には3人の子がいた。恐らく側室に生ませたのであろう。

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